医師であり作家でもある久坂部羊さんが2025年3月に発表した『絵馬と脅迫状』は、医療現場を舞台にした6つの短編小説を収録した作品集です。
医学と人間の関わりを深く掘り下げながら、ミステリアスな展開で読者を引き込む物語の数々は、久坂部さんならではの視点で描かれています。
医療という専門性の高い世界を背景にしながらも、誰もが共感できる人間ドラマが繰り広げられる本作は、読み応えのある一冊となっています。
作品の概要
久坂部羊さんの『絵馬と脅迫状』は、幻冬舎から2025年3月12日に発売された短編集です。医療というテーマを軸に、6つの物語が収められています。タイトルにもなっている「絵馬」の短編をはじめ、それぞれの物語が独自の世界観を持ちながらも、「医」と「病」という共通のテーマで緩やかに繋がっています。
久坂部さんは1955年大阪府生まれの医師であり作家です。大阪大学医学部を卒業後、2003年に小説『廃用身』でデビューしました。その後、『破裂』や『無痛』などの作品がベストセラーとなり、テレビドラマ化もされています。また、『悪医』で第三回医療小説大賞を受賞するなど、医療を題材にした小説の第一人者として知られています。
医師としての経験を活かした作品は、医療現場のリアリティを伝えながらも、人間の心理や社会の問題を鋭く描き出す力があります。『絵馬と脅迫状』もまた、そんな久坂部さんの真骨頂が発揮された作品集となっています。
本書に収録されている6つの短編は、それぞれが独立した物語でありながら、医療という共通項で結ばれています。医師や患者、病気や治療、医学研究など、私たちの生活に密接に関わる医療の世界を多角的に描き出しています。生まれてから死ぬまで、人は病院と医者から離れられないという現実を背景に、様々な人間ドラマが展開されていきます。
収録作品の魅力
「爪の伸びた遺体」の不可解な事件
「爪の伸びた遺体」は、本作品集の中でも特に印象的な一編です。主人公は、ある病院で働く医師です。ある日、彼の勤務する病院に新しい医師が赴任してきます。その医師は、主人公が学生時代に自殺した親友と瓜二つの容姿をしていました。
主人公は最初、単なる偶然の一致だと思っていました。しかし、新人医師の言動や振る舞いが、かつての親友を彷彿とさせるものだったため、次第に不安と疑念を抱くようになります。さらに、彼が赴任してきた後、病院内で不可解な事件が頻発するようになります。
患者の容態が急変したり、医療ミスが続いたり、病院内の雰囲気も少しずつ変わっていきます。主人公は、この新人医師と自分の亡くなった親友との関連性について、徐々に調査を始めます。過去の記憶を辿りながら、親友の自殺の真相に迫っていく過程で、主人公自身も過去と向き合うことになります。
この物語は、単なるミステリーにとどまらず、医療現場における責任や倫理、そして人間の記憶と罪悪感についても深く考えさせられる内容となっています。タイトルにある「爪の伸びた遺体」という言葉が象徴するように、死後も成長し続けるものの存在が、物語全体を通して暗示されています。
久坂部さんは、医師としての経験を活かし、病院という閉鎖的な空間での人間関係や、医療従事者が抱える心理的な葛藤を鮮やかに描き出しています。読者は、主人公と共に謎を解き明かしていく過程で、医療という聖域にも潜む闇の部分を垣間見ることになるでしょう。
「悪いのはわたしか」の脅迫状ミステリー
「悪いのはわたしか」は、成功した女性精神科医を主人公にした物語です。彼女は著書がベストセラーになり、新聞の人生相談コーナーでも好評を博し、患者からの信頼も厚い医師として描かれています。そんな彼女のもとに、ある日「二度と人前に出られなくしてやる」という差出人不明の脅迫状が届きます。
最初は単なるいたずらだと思っていた彼女ですが、脅迫状が繰り返し届くようになると、次第に不安を感じるようになります。脅迫状の内容は、彼女の過去の言動や診療内容に関するものであり、送り主は彼女のことをよく知る人物だと推測されます。
彼女は自分の過去の患者や関係者を思い返しながら、脅迫状の送り主を特定しようと試みます。その過程で、彼女自身も気づいていなかった自分の言動の影響や、精神科医としての責任について考えさせられることになります。
この物語は、医師と患者という特殊な関係性の中で生まれる信頼と裏切り、そして言葉の持つ力について深く掘り下げています。精神科医という、患者の心の内面に触れる職業だからこそ直面する難しさや、その言葉が持つ重みについても考えさせられます。
タイトルの「悪いのはわたしか」という問いかけは、物語を通して主人公自身が自問自答し続ける問いでもあります。読者も共に、医療における責任の所在や、他者の心に影響を与えることの意味について考えさせられるでしょう。
「絵馬」が描く因果応報
本作品集のタイトルにもなっている「絵馬」は、信心がまったくない医学信奉者の内科医を主人公にした物語です。彼は病院の近所にある神社で、同僚の外科医が奉納した「手術が無事に終わりますように」と書かれた絵馬を誤って割ってしまいます。
科学を信じ、迷信を一切信じない主人公ですが、絵馬を割った後、彼の周りで次々と不幸な出来事が起こり始めます。同僚の手術は失敗し、自分の診察した患者の容態も急変し、さらには家族にまで不幸が及びます。
最初は単なる偶然だと考えていた主人公ですが、不幸な出来事が続くにつれて、次第に「絵馬を割ったことによる祟り」という考えが頭をよぎるようになります。科学的思考と迷信的思考の間で揺れ動く主人公の心理描写は、非常に繊細かつ鮮明に描かれています。
この物語は、現代医学と伝統的な信仰の対比を通して、人間の心の奥底に潜む不安や恐怖、そして科学では説明できない現象への向き合い方について問いかけています。医学を信奉する医師が、科学では説明できない現象に直面したときの葛藤は、読者にも深い共感を呼び起こすでしょう。
久坂部さんは、医師としての視点から、科学と信仰の境界線上にある人間の心理を鋭く描き出しています。因果応報という古来からの概念と、現代医学の合理的思考との対比が、物語に奥行きを与えています。
「リアル若返りの泉」の奇跡と代償
「リアル若返りの泉」は、68歳の元教員・泉宗一が主人公の物語です。ある日突然、彼の体に異変が起こります。髪が増え始め、シワが減り、体力が回復するなど、若返りの兆候が現れ始めるのです。
最初は単なる体調の良さだと思っていた彼ですが、周囲の人々も彼の変化に気づき始めます。医学的検査を受けても原因は分からず、彼の若返りは続いていきます。外見だけでなく、記憶や思考パターンまでもが若い頃の状態に戻っていく様子が描かれています。
しかし、若さを取り戻すことは必ずしも幸福をもたらすわけではありません。若返りに伴い、彼は現在の生活や人間関係にも変化が生じ、様々な葛藤を抱えることになります。若い頃の記憶が鮮明になる一方で、最近の記憶が薄れていくという副作用も現れ始めます。
この物語は、老いることの意味や、若さへの憧れ、そして人生における時間の価値について深く考えさせられる内容となっています。若返りという一見すると夢のような現象が、実は大きな代償を伴うものであることを、久坂部さんは冷静な筆致で描き出しています。
医学的には説明できない現象を通して、人間の生と死、そして時間の流れについての哲学的な問いかけがなされています。読者は、主人公と共に「若さとは何か」「老いるとはどういうことか」という根源的な問いに向き合うことになるでしょう。
久坂部羊さんの医療小説の特徴
久坂部羊さんの医療小説の最大の特徴は、医師としての経験に基づくリアリティです。医療現場の描写や専門用語の使い方、医師や患者の心理描写など、すべてが実体験に基づいた説得力を持っています。
『絵馬と脅迫状』においても、病院という特殊な環境や、医師と患者の関係性、医療行為に伴う責任や倫理観などが、細部にわたって丁寧に描かれています。読者は、普段は立ち入ることのできない医療の世界を、リアルに体験することができます。
また、久坂部さんの作品のもう一つの特徴は、人間の弱さと強さを描く視点です。医師も患者も、すべて一人の人間として描かれており、その弱さや迷い、葛藤が赤裸々に表現されています。完璧な医師や理想的な患者ではなく、欠点や弱点を持ちながらも懸命に生きる人間の姿が、読者の共感を呼び起こします。
『絵馬と脅迫状』に収録されている各短編も、単なる医療ミステリーにとどまらず、人間の心の奥底にある感情や欲望、恐怖や希望を描き出しています。医療という切り口から、人間の本質に迫る物語となっています。
さらに、久坂部さんの作品の魅力は、ミステリーとヒューマンドラマの融合にあります。謎解きや推理要素を含みながらも、その根底には常に人間ドラマがあります。『絵馬と脅迫状』の各短編も、表面上はミステリアスな事件や現象が描かれていますが、その本質は人間の心の機微や社会の問題を描いたヒューマンドラマとなっています。
医師という立場から見た人間観察と、作家としての洞察力が融合した久坂部さんの作品は、読者に新たな視点を提供し、考えるきっかけを与えてくれます。『絵馬と脅迫状』もまた、そんな久坂部さんの真骨頂が発揮された作品集と言えるでしょう。
感想・レビュー
『絵馬と脅迫状』を読んで最も印象に残ったのは、医療現場の知られざる側面を鋭く描写する久坂部さんの筆力です。私たち一般人が普段目にすることのない病院の内側、医師たちの葛藤や患者との関係性が、非常にリアルに描かれています。
特に「爪の伸びた遺体」では、医師としての責任感と人間としての感情の間で揺れ動く主人公の姿が印象的でした。自殺した親友の面影を持つ新人医師との関わりを通して、主人公自身も過去と向き合っていく様子は、読んでいて胸が締め付けられるような感覚を覚えました。
「悪いのはわたしか」では、精神科医という職業の難しさが浮き彫りにされています。人の心を扱う仕事だからこそ生じる責任の重さや、言葉の持つ力について考えさせられました。脅迫状を送ってくる人物の正体が明かされるまでのサスペンスも見事で、一気に読み進めてしまいました。
タイトル作品の「絵馬」は、科学と信仰の狭間で揺れ動く現代人の姿を象徴しているように感じました。理性では説明できない現象に直面したとき、人はどう反応するのか。その心理描写が非常に繊細で、自分自身も同じ状況に置かれたらどうするだろうかと考えさせられました。
「リアル若返りの泉」は、ファンタジー要素を含みながらも、老いることの意味や若さの価値について深く考えさせられる物語でした。若返りという一見すると夢のような現象が、実は大きな代償を伴うものであることを示す展開は、人生における時間の価値について改めて考えるきっかけになりました。
短編集ならではの読みやすさと多様性も、本作の魅力の一つです。6つの物語はそれぞれ独立していますが、「医」と「病」というテーマで緩やかに繋がっており、一冊を通して読むことで、医療という視点から見た人間の多様な側面を知ることができます。
久坂部さんの文章は、医学的な専門知識を含みながらも決して難解ではなく、一般の読者にも理解しやすいように書かれています。それでいて、人間の心理を巧みに表現する筆力は見事で、各キャラクターの内面描写が非常に説得力を持っています。
『絵馬と脅迫状』は、ミステリーとしての面白さだけでなく、人間の心の機微や社会の問題を描いた文学作品としても読み応えがあります。医療という切り口から人間の本質に迫る久坂部さんの視点は、読者に新たな気づきや考えるきっかけを与えてくれるでしょう。
医療に関心がある人はもちろん、人間ドラマやミステリーが好きな人にも、ぜひ手に取ってほしい一冊です。久坂部さんの医師としての経験と作家としての洞察力が融合した本作は、読後も長く心に残る作品となっています。
まとめ
久坂部羊さんの『絵馬と脅迫状』は、医療現場を舞台にした6つの短編小説を収録した作品集です。医師である著者ならではの視点で描かれた「医」と「病」をめぐる物語は、読者を不思議な世界へと誘います。
医療という専門性の高い世界を背景にしながらも、誰もが共感できる人間ドラマが繰り広げられる本作は、2025年3月に発売されたばかりの新鮮な読み物です。
ミステリーとヒューマンドラマが融合した本作は、読後も長く心に残る作品集です。医師としての専門知識と作家としての洞察力を兼ね備えた久坂部さんだからこそ描ける医療の世界は、私たち読者に新たな視点を提供してくれます。
医療ミステリーとヒューマンドラマが見事に融合した本作は、医療に関心がある人はもちろん、人間の心の機微に触れる物語を求める全ての読者におすすめの一冊です。



